◆◆◆In one's boyhood◆◆◆
車を降りて、両手に荷物を抱え、エレベーターを使わずに地下駐車場から一旦マンションの外に出たのは、単なる気まぐれだった。 午後の空は見渡す限り気持ちよく晴れていて、出先の駐車場でも散々見上げた空をもう一度見たいと思ったのと、 運動不足がちな身体を多少でも動かさなければという強迫観念に駆られたのもその理由かもしれないが、やはりそれは気まぐれだったろう。 暗い地下から地上に出たとき、夏の陽のように目が眩むほど強くないそれは、しかし日頃酷使している私には少し眩しく、 疲れぎみな眼を細めた。ぱちぱちと瞬きをして私は荷物を抱え直し、エントランスへ向かった。運動不足の解消にはなりそうもない距離だが。 子供の歓声を聞いたのは、エントランスの側の駐車場を通りかかったときだった。 歓声を上げながら、四、五人の子供たちが私の前をころころと駆け抜けていく。かくれんぼとも鬼ごっこともつかない ――おそらくその二つを併せた――遊びに我を忘れて。 子供たちの姿と、三十年近く前の古い記憶が重なる。年齢も定かではない、古い古い思い出だ。 一緒によく遊んだ友達は年上が多く、あまり活発ではなかった私はいつもかくれんぼでも鬼ごっこでも最初に見つかり、 鬼ばかりやらされていた。 あれは、そんないつものかくれんぼの最中だったろう。 いつものように鬼だった私は、慣れたもんで次々と見つけていったのだが、どうしても一人だけ見つからなかった。 その子は私より一つ年上の女の子で顔はもう覚えていないが、明るく笑う傍ら時折暗い表情をして、 幼い私はその沈んだ表情の理由を欠片も想像することはできなかったが、戸惑ったことだけは覚えている。 みんなで遊んでいるのに、何がそんなに悲しいのだろうと。 友達みんなで捜したが彼女は見つからず、誰かが大人を呼んできた。大人が出てくると騒ぎはあっという間に大きくなり、 警察と彼女の母親が深刻な顔で話しているのを、私は遠くから眺めていた。 いなくなった彼女は、翌日何の怪我もなく無事に自分で戻ってきたが、そのあとすぐに引っ越していった。 その事件の顛末を知ったのは何ヶ月か後で、あの時一緒に遊んだ友達の一人から聞いてだった。 彼女は、離婚し親権を失った父親に一日だけ誘拐されたのだ。 いつも一緒に遊んだその子に父親がいなかったということに両親とも健在で平和だった私は驚いたが、同時に納得もした。 彼女の悲しそうな表情は、友達の誰かが自分の両親の話をしたり遅くまで遊んでいる私たちを父親が迎えに来たり、 そんなときによく見たと、気づいたが遅かった。彼女とはもう一緒に遊べないのだから。 あれ以降私たちはかくれんぼをしなくなった。かくれんぼをしたら、また誰かがいなくなるかもしれない。 誰が言ったわけではないが、みんなそう思っていた。 それでも月日は過ぎ、自分のことで忙しい子供たちは彼女のことを忘れていったが、私は時折思い出しては、 子供らしい想像力と好奇心で彼女と彼女を誘拐した父親がその一日をどんな風に過ごしたのかを空想した。 子供の私がどんな空想をしたのか、今の私にはもうわからない。大人になってしまった私とあのころの私の空想は、 おのずと違ってくるだろう。 昔の記憶を掘り出してる内に、エレベーターはあっという間に私を七階へと運んだ。 ポケットから出した鍵を差し込んで、だが鍵を回さずそのまま引き抜いた。ノブを回すとあっさりドアが開く。思った通りだ。 部屋の中に、うっすらとキャメルの匂いが広がっている。煙草を吸うのはいいが、くわえ煙草でうろうろするのは灰が落ちるからやめろと言っているのに、全く聞きやしない、あの助教授は。 「火村」 荷物をキッチンのテーブルに置いて呼ぶと、「こっちだ」と返事があった。 火村はバルコニーで柵に肘をついて外を眺めながら、煙草を吹かしていた。 「おかえり。いい天気だな」 私は軽く肩をすくめて、火村の横で同じように外を眺めた。確かに今日はいい天気だ。一言注意してやろうと思っていたくわえ煙草の件も、もうどうでもよくなって、彼が吸っているキャメルを横から奪い取って軽く吸い込んだ。白い煙が上っていくのを、ぼんやりと見届ける。 「さっき、駐車場からわざわざ上にあがってきてただろ、お前」 火村は新しいキャメルに火をつけながら、どうでもいいけどなといわんばかりの口調で言った。私は「ああ」と返事をし、 「見とったんか?」 「子供が遊んでるの、目で追ってただろ」 七階のバルコニーからよくそこまで見てるなと、感心しつつ私はうなずいた。 「まあな。俺にもあんなころがあったなぁ思て。よう近所の子と一緒に、かくれんぼやら鬼ごっこやら……火村先生にもあったやろう。今じゃもう見る影もないけど、素直でかわいい子供のころが」 「素直でかわいかったのは確かだろうけど、何して遊んでたかなんて覚えてねぇな」 「覚えてへん言うのは間違いやな。覚えとったら不味い事ばっかりしとったんやろ。近所の子苛めて泣かせたり。せやから、忘れたと思いたいんや」 茶化すように言うと、火村はにやにや笑って私を見、 「お前にしてるようにか?」 「俺がいつお前に泣かされた?」 「夜。お前は覚えてないだろうけど、それどころじゃないから」 「……ほんま、かわいないな……君は」 火村の足もとにあった灰皿を拾いあげ、腹いせとばかりに煙草をぎゅっと押しつけた。笑っていた火村は、またキャメルを一息吸って吐き出す時に、ふと真顔になった。 「あの頃からお前がいたなら、何をして遊んでたか覚えてたさ」 思わず、まじまじと火村の顔を見てしまう。どういう意味なのかと、言葉の続きを促すつもりで見つめたが、火村はそれ以上何も言う気はないようだ。彼は煙を吐きながら空を見上げている。その顔には何の感情も伺えないが、私の知らない彼の子供のころを思い出しているのかもしれなかった。 「あのな、前の話には続きがあってな」 言う気はなかったのだが、火村の横顔を見つめているうちに私の口はいつの間にかあの日のかくれんぼの事を話し出していた。 「幾つくらいのことやったか、よう覚えてへんのやけど、多分、小学校の一年か二年か、そんくらいの頃やった思う。いつものように皆でかくれんぼしててな、俺が鬼やったときどうしても一人見つからん子がおってん……離婚した父親に誘拐されてもうた所為やったんやが、それ以来、かくれんぼせえへんようになってな……そんなことを思い出しとったんや」 「へぇ」 火村は少しだけ意外そうな顔をした。言いたいことはわかる。平和そうな少年時代を送っているように見えるのにな、だ。 「それで、その誘拐された子ってのは、どうなったんだ」 「無事に次の日に帰ってきた。その後すぐ引っ越していったんやけどな。その子とはそれっきりや」 「ということは……」 火村は再び空に目を向ける。いつもの無表情。淡々とした口調。 「その時のかくれんぼは、今もまだ続いているわけだ」 「え……?」 思いがけないことを言われて、私は絶句する。確かに……確かに私はあの時以降一度もかくれんぼをしなかった。彼女を見つけることができず、私はあの日の鬼のまま今日に至っている。 「そうか……そうやな」 考え込むように私はうつむいた。火村の言葉が頭の中で繰り返されている。あの時のかくれんぼは、今もまだ続いている―― 「おい、何をそんなに考え込んでんだ。そこまで悩むような事じゃねぇだろ」 苦笑交じりに火村が言った。 「子供の遊びさ」 私は多少むっとして言い返す。 「気になるような言い方するからや。だいたい、お前の言葉はいちいち含みのあるように聞こえるんや」 「そりゃ悪かったな」 この言い草。私の言葉など全く意に介してない。まさに馬耳東風だ。 「火村」 「何だ」 「煙草。一本くれ」 黙って差し出した煙草に火をつけて、その一本を吸い終わるまで、私たちは無言だった。少しずつ空は日暮れの色を増して行き、微やかな風が髪と紫煙をあおった。 「……どこの空だったかは覚えてないが」 唐突に火村が話し出した。 「小学校に上がる前だったかな……誰かと遊んでいた途中で、何となく見上げた空が今日と同じいい天気で、ぼけーっといつまでも眺めてたのを今思い出した」 火村が昔のことを話すのは、十何年付き合ってきたが数える程しかない。それも仄めかす程度の、一言二言だけだ。 私は、彼の少ない言葉から、五、六才の頃の助教授の姿を思い描いた。 遊びの途中で今日と同じ空を見上げて、幼い火村は何を思ったのだろう 。 「どこの空もおんなじや」 美しい夕暮れになりつつある空に背を向けて、私は下に置いてあった灰皿を拾った。 「君が空を見上げてたとき、俺もきっと同じ空を見上げてた。こんなに良い天気やったんならな」 リビングに戻る私の背に、「ああ、そうかもな」と、少しうれしそうな火村の声が微かに届いて、自然と頬がほころぶのを感じながら、私は二人分のコーヒーを煎れるためにキッチンへ向かった。 |
研究結果 初出>>>>>『ALMOST LIKE BEING HERE』 コメントって言われてもねー。書いたのは大昔ですから、まるで別人が書いたもののようです。 以上が草部教授からのコメントですが、一言つっこませて頂きたい。 |